作詞 野田 宇太郎
作曲 平井 康三郎
一 しらぬひの 筑紫の空に
古処の峰 今日も高く
朝倉よ 梅の薫れば
白金の思ひ つねに明るし
その裏梅の 形しずかに
学ばなむ共に 若きわれら
母校 聖なる朝倉高校
二 丸山の丘は まどかに
野は広く 道は遥か
朝倉よ 菜の花咲けば
黄金なす心 つねに愛あり
その輝きと望みのなかに
学ばなむ共に 若きわれら
母校 幸ある朝倉高校
三 いにしへの 雅びの郷に
甘木川 水はあらた
朝倉よ 櫨色づけば
くれないの力 つねに一原
その熱をもて 自ら治め
学ばなむ共に 若きわれら
母校 愛する朝倉高校
作詞 後藤 明生
作曲 鞭 幸枝
一 耳納の山の 朝明けや
清冷の風 混濁の
闇を流しつ 疾くゆきて
しののめの雲かかるとき
いざ眉上げむ 我が友よ
声高らかに 呼ばむかな
二 紫紺にかすむ 筑紫野の
裏梅薫る 学舎は
幾俊英の 揺籃ぞ
蓋世の歌 高らかに
自由の剣 右手にもち
左手にかざせ 愛の旗
三 南国の空 いや碧く
若人の意気 いや高し
赤き血燃ゆる我が友よ
或は東 又は西
勇魚の波をゆくがごと
青雲の果 覇を遂げむ
四 業火の後に 甦える
若き理想と 創造の
幽遠の花 求めつつ
先駆の翼 羽搏けば
見よ筑紫野は 風立ちて
今九天に 虹清し
五 ああ東に 雲湧きて
雲峰古処は 魏々と立つ
我が躍進の 雄叫びは
乱るる雲に 似たるかな
見よ溌剌の 我が意気は
飛鳥の舞に 似たるかな
theEpisode...
昭和23年、校章の募集とともに学生歌の生徒への募集が行われた。数度の募集の後、当時2年生に在学していた後藤明生氏の作詞が選ばれ、本校教諭の鞭 幸枝氏の作曲による学生歌は校歌制定以前には至る所で愛唱された。生徒手帳に掲載されていたのも学生歌である。校歌が制定されてからも、全校集会や学校行事の際に校歌とともに歌い継がれている。
作詞 坂本 真鈴
作曲 山田 早苗
一 九天高く聳えたつ
古処の霊峰影清く
万頃の田を浸しゆく
千歳の大河色深し
見よ正大の気は凝りて
美はしきかな筑紫野は
二 そも西海の一聖地
神の啓示を身に浴びて
裏梅の旗ひるがへし
理想に生くる健児あり
至誠の火胸愛国の
思念に燃ゆる朝中魂
三 ああ聖代に生を得て
空しかるべき男子やも
栄ある過去をかへりみて
栄ある歴史つくりつつ
この一原の力もて
匪躬の節を致さなむ
theEpisode...
昭和3年6月8日、築城中学校校長 植木殖氏が本校校長として発令された。園田校長時代に制定の動きはあったが、昭和3年6月12日の職員会において校歌制定委員会が発足した。生徒より募集し、4篇を選び、第五高等学校教授 八波則吉氏に最終選考を依頼。ところがその際、係であった坂本真鈴先生が自作の詩も加えて送っており、坂本先生の作品が選ばれてしまった。此処に、坂本 真鈴作詞・山田 早苗作曲による朝倉中学校校歌が誕生した。山田 早苗氏は朝倉高等女学校の教諭である。昭和3年11月11日創立20周年記念式典において正式に発表された。
作詞 近藤 思川
作曲 原田彦四郎
一 菜の花の 窓にうつらう 筑紫野の
ひろきながめは 果て知らぬ
師のめぐみかも 朝倉や
木の丸殿は 名にし負う
宮居のあとぞ
ああ畏しこ わが学びや
二 白銀の 翼ひろげて 大刀洗
秋空とべる 飛行機の
高き直ぐなる 道を経て
いやうるわしき 小公子と
言われんものぞ
ああうれし わが学びや
theEpisode...
この校歌は本校国語担当の近藤思川(義夫)氏の作。作曲は福岡師範学校音楽担当の原田彦四郎氏を煩わして、大正11年制定された。校歌には朝倉を象徴する「菜の花」「木の丸伝」「太刀洗」が歌いこまれているが、これは近藤氏が郷土を題材とした作品発表を主目的とした音楽団体の「花橘会」を組織して活潑な活動を始めたことと関連があり、近藤氏は校歌制定の動機について「私の郷土歌曲運動のプロローグとして生まれたものである」と述べられている。